およそ千二百五十年前、当山を「野間の高嶽(のまのたかたけ)」または「東の高嶽」と呼ばれていた頃、僧行基がこの山を拓き、霊所として一寺を建立し、「爲楽山大空寺(いらくさんだいくうじ)」と称していました。
山の北側の中腹に落下する、一条の滝を拓いて水行の道場、精神錬磨の最適の行場と定め、以来、その滝を「行儀(ぎょうぎ)の滝」と呼ばれるようになったと伝えられています。
当山には次のような伝説もあります。
野間中の字「フルノ」という所に、大きさ手まりほどの星が天降(あまくだ)り、村民達が恐れて巫女(みこ)の口を借りて尋ねたところ、『我は北辰(ほくしん)大菩薩なり。国土守護のためこの地に降りた。清浄な地に移し、一心に祈念すれば、諸願成就せしめん』
このようなお告げに村民は喜び、早速、東の高嶽にこれを勧請しお祀(まつ)りした。その星の天降ったといわれる所は、稲地の「元妙見」で、お堂が建てられ、代々平田姓が守っておられます。
爲楽山大空寺は、一時は隆盛でしたが、元亀 天正のころには、戦乱の世となり、寺は衰微し、荒廃しました。天正九年(1582)時の領主能勢頼次(のせよりつぐ)は、外襲を防ぐため、この寺を改造し、城構(じょうこう)としました。
慶長六年(1601)頼次は日蓮宗に帰依し、京都の本満寺(ほんまんじ)十三世日乾(にちけん)上人を請い、領内改宗を行い、そのとき頼次の遠祖、多田満仲公の邸内に祀られていた「鎮宅霊符神(ちんたくれいふじん)をここに移し、日乾上人がそれを「妙見大士」として法華勧請して、城の守護神としました。
日乾上人は滝を改修し、行基菩薩の芳蹟を尊重するとともに、法華の行場として大衆教化(きょうげ)にあたり、この山の守護神として「宇迦の御魂(うがのみたま)」(権化常富菩薩)を勧請し、以来その霊験はますます加わり、「能勢の本滝(ほんたき)」と呼ばれるようになりました。
















